2007年3月27日 讀賣新聞

(2)忘れ得ぬ出征兵士の涙

「鉄路は消えても記憶の中には残したい」

写真:写真説明
「鉄道と沿線の歴史を語り継いでいきたい」と話す遠藤さん
 「昔は、子どもは12銭ぐらいで乗れたんだっけかな。どの列車もデッキまで人があふれかえったものですよ」

 軽快なエンジン音を響かせて踏切に近づいてくる列車に、小美玉市栗又四ケの遠藤行夫さん(75)は「鹿島鉄道」がまだ「鹿島参宮鉄道」だった当時の思い出をよみがえらせた。

 太平洋戦争が始まる前、尋常小学校に通っていたころ、年に1、2回、最寄りの常陸小川駅から一人で列車に乗り、石岡の本屋に行った。ポケットにはこつこつためたお小遣い。小さな旅でも心躍る冒険だった。

 しかし、そんな楽しみを戦争が塗りつぶしていった。駅は出征兵士と見送る人たちであふれかえった。遠藤少年も幼心に「いつかぼくも兵隊さんになり、これに乗って戦地に行くんだ」と決め、元気良く日の丸の旗を振った。

 脳裏に焼き付いた光景がある。いつものように若い兵士の見送りで家の外に出た。見送る側は誰もが晴れがましい顔で駅へと歩いていたのに、兵士本人は顔をくしゃくしゃにしていた。なぜか、目が離せなくなった。駅に着いても、列車に乗ってもその涙は止まらなかった。異様に思えた。気が付くと、群衆の「万歳」の声を置いて、列車はかなたへと消えていった。

 遠ざかる列車と若者の涙を思い出すたびに胸が痛くなる。「平和な世の中になって考えれば当たり前なんだよね。家族を残して戦地に行くことが、どんなにつらかったか」

 戦争激化で男手が少なくなり、切符を切るのは女性の役目となった。軍関連の輸送の任も担い、親会社の「関東鉄道」の社史も、「主に貨車が小型爆弾や機銃掃射攻撃を受け、積んでいた爆弾が破裂したこともあった」などと、常に危険にさらされての列車運行だったことを記録している。

 沿線で生きる人々の人生を運び、苦しい時代をかけ抜けた鹿島鉄道も、いつしか空席が目立つようになっていた。そして廃線決定のニュース。

 「乗客がいないのだから廃線はやむを得ない。でも、私たちが育った時代の象徴、思い出が詰まった雄姿が消えるのは」。さすがにショックだった。

 たまに孫に鉄道の思い出を聞かせる。「おじいちゃんは子どもの時分、鹿島鉄道に乗ってな――」。孫も面白がって目を輝かす。

 孫の表情を見て、最近、遠藤さんはある願いを持ち始めた。「鉄路は消えても人の記憶の中には残したい。同世代の人も少なくなってきたが、一人ひとりの言葉をつなぎ合わせれば立派な歴史。そうなれば沿線の人々の歩みも語り継がれる」