2007年3月26日 讀賣新聞


鹿島鉄道(石岡―鉾田間、27・2キロ)が31日、廃止される。1924年、鹿島参宮鉄道(石岡―常陸小川間)として営業開始以来、通勤通学、生活や観光に欠かせない足で、一時は年間300万人近くが利用したものの、2005年度は77万人。県や沿線4市が公的支援に動いたが、親会社・関東鉄道(本社・土浦市)の経営悪化もあり、再起はかなわなかった。惜しまれながら80余年の歴史に幕を閉じる前に、鉄路とともに生きた人たちの思いを聞いた。

(1)車両整備の誇り胸に

「おれの仲間。壊される姿見たくない」

写真:写真説明
車両の点検を見守る佐々木区長(左)(石岡市石岡の石岡機関区で)
 ブルン、ブルン――。ディーゼルエンジンの軽快な音とともに、列車が石岡駅を出発した。

 「よし、万全だ」。線路脇の部屋から見つめる石岡機関区長の佐々木和夫さん(58)がうなずいた。音の調子と煙の有無でエンジンの調子が分かるからだ。

 1968年の入社以来、主に機関区で車両整備を担ってきた。常に心がけるのは「列車が出発する前の朝の1回の整備で、自信を持って『大丈夫』と言い切れること」。機関区の先輩から何度も言われた忠告だ。

 若手にも「『これで大丈夫かな』と疑問を残したまま、整備を終わらせるな。分からなかったら、何でも聞いてこい」と助言してきた。

 苦い思い出がある。初めてエンジン調整を任された列車が、なんと運行中に停止し、そのまま運休になってしまったのだ。

 同じ型のエンジンでも一つひとつに癖がある。「それらを知り尽くし、ネジの締め具合などを加減できて、初めて完全な整備に到達するのだ」と思い知った。

 鹿島鉄道では9両のディーゼル車両が走っている。うち、36年製を筆頭に、古い5両は佐々木さんが電気系統の配線を一から引き直すなどして、新たな命を吹き込んだ。

 「すべて、おれの仲間」。いつしか、そう思うようになった。

 どれも補修用の部品が手に入りにくい。どうしても部品が手に入らない時に譲ってもらえるよう、同じ型の車両がどこの鉄道で走り、予備の部品を持っている可能性があるのか、頭に入れた。

 しかし、廃線で車両のほとんどが廃棄される運命にある。「壊される姿だけは見たくない」。先輩から受け継ぎ、丁寧に手を入れてきた車両の命を、自分の時代に終わらせることが何よりつらい。

 関東鉄道のほかの路線の整備に就く者、本社で事務の仕事に就く者。機関区の仲間もバラバラになる。

 佐々木さんはかつて経験した部品発注のデスクワークに戻る。現場に立っていたいが、もはや望むべくもない。

 整備の仕事を続ける仲間には「自分がいなければ車両は動かない、というぐらいの自信を持て」と激励して送り出すつもりだ。だが、今はまだ目の前の車両に神経を集中させている。

 「メンツにかけて9両を動かし続け、最後の列車を見送るまで縁の下の力持ちに徹する」。それが機関区員の当然の気概だと思っている。