2月20日夜、石岡市内のホテルで開かれた鹿島鉄道(石岡―鉾田間、27・2キロ)の対策協議会。「廃止させるために、支援したわけではない」。鉄道廃線の方針を表明した小野里忠士・鹿鉄(かし・てつ)社長に沿線5自治体の首長らが迫った。経営危機に陥った鹿鉄に、自治体は02年から毎年約4千万円を支援してきた。
「もはや民間事業者の手に負えないほど状況は厳しい。親会社の支援がなければ、やっていけない」。小野里社長はそう言って頭を下げるしかなかった。
親会社の生き残りと地域の公共交通機関としての役割。その二つの重さの間で、てんびんの針が親会社の生き残りに向けて大きく振れた瞬間だった。
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鹿鉄に廃止を決意させたのは、2月14日に届いた親会社・関東鉄道(土浦市)からの「07年度以降の支援不能」という回答だ。
関鉄は1965(昭和40)年、鹿鉄の前身、鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併し、生まれた。通勤・通学客が増加した常総線や高速バス事業などで成長する一方、乗客が減少する鹿鉄を79(昭和54)年に分社化。02年度から毎年6千万円を支援してきた。
だが、昨年のつくばエクスプレス(TX)の開通で、関鉄も「会社創立以来の危機」(佐藤芳男・関鉄総務部長)に襲われた。関鉄のそれまでの収入の柱は、つくば、水海道、鹿嶋からそれぞれ東京へ向かう高速バス3ルート。つくばルートだけで年間10億円を売り上げ、この3路線の稼ぎで、赤字路線を埋め合わせていた。
TX開業でつくば、水海道ルートの乗客がそれぞれ6、7割減少し、屋台骨が一気に崩れた。佐藤総務部長も「TXの影響について見積もりが甘かった」と対策協で認めた。
関鉄は県南地域の大部分の交通網を担う。大塚聡・関鉄企画課長兼TX対策室課長は「万が一(関鉄が)倒れたら、県南の交通機関がなくなってしまう。鹿鉄への支援はもうできない」。
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鹿鉄の経営危機が表面化したのは、01年7月。1967(昭和42)年から担ってきた航空自衛隊百里基地への航空燃料輸送が、榎本(えのき・もと)駅と同基地を結ぶパイプラインの老朽化に伴い、トラック輸送に切り替えられたことがきっかけだった。
年間1億5千万円近くあった燃料輸送の収入が経営を支えてきた。阿久津弘基・鹿鉄専務は「燃料輸送があったから生きてこられた」と語る。
鹿鉄は県や沿線自治体に支援を求め、02年度からの経営改善5カ年計画を策定。支援を受けながら、浮上策を探ることになった。
年間乗客数のピークは67年の300万人。02年に年間90万人に落ち込んだ乗客は、04年には84万人に減少。イベント列車などで乗客増を狙ったが、鉄道事業は毎年6千万円以上の赤字を計上し続けた。不動産収入などで補っても、支援を受けた02年度以降の3年間で、8200万円の赤字が積もった。02年当時、廃線の道を選ばなかったことについて阿久津専務は、「公共的使命を80年担ってきた責任から」と振り返る。
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鹿島鉄道が3月30日、関東運輸局に廃止届を提出しました。県や沿線自治体の対応や利用者らの現状を報告しながら、鹿島鉄道について考えます。(この連載は、岡田玄、川島幹之、木村聡史が担当します)